平成18年7月19日(水)の日本経済新聞の「四国遍路」というコラムで、十夜ヶ橋食堂が紹介されました。
ある日の午後、一人の男性のお客様が十夜ヶ橋食堂にこられました。そのお客様は一見スポーツタイプ、服装は軽装、背中には大きなリュックを背負ったとてもきれいな目をした、でも鋭い目をされているのが印象に残る方でした。
私が「おいでなさーい」と出迎えると、お客様は焼きそばをご注文されました。
その時はお店がちょっと暇だったので、お客様がポツポツとお大師様の事を聞かれるんです。
私は質問に答えていましたが、「詳しい事は前にある永徳寺さんで聞いてください」と言ったんです。
するとお客様が、「違うんです。野宿飴の事が聞きたいんです。」と言われ、昔の話や野宿飴の話等々をしゃべっていると、お客様がもの凄い速さでメモされるんです。もう私はビックリです!
「すみません。すみません。何屋さんですか?」と訊ねると、「こういうものです」と名刺を出され二度ビックリです。なんと日本経済新聞の記者さんでした。
『喋るんじゃなかった・・・。』頭の中が真っ白になりました。
「まさか新聞に載せませんよね?絶対いやですよ!」と何回も念を押してお願いしましたが、記者さんは、「大丈夫ですよ。お元気で~!」と言って店を出て行かれました。
でも、私はその日からドキドキです。心配で新聞を買いに毎日コンビニへ行きました。
そして、平成18年7月19日の日本経済新聞を見たときに私は唖然としました。まさかあれほどお願いしたのに新聞記事に名前も歳もばっちり載ってました。
『困ったなぁ、どうしたもんか』と悩んでいましたが、今更仕方がないので開き直る事にしました。
それから2ヶ月ほど経ったある日の事。
白衣を着た女性のお遍路さんが十夜ヶ橋食堂に来られ、新聞で掲載されていた記事を切り取り、拡大して持ってきてくださいました。
「感動しましたよ!ご苦労なさったんですね」と言われた時に、ホッと肩の荷が下りました。『そんな風に感じてもらったんだなぁ』とうれしく思いました。
今から約20年程前、十夜ヶ橋のお土産を作りたい。名前は「野宿飴」。
お土産を作る事を家族に相談しましたが、猛反対で話になりません。
でもやっぱり野宿飴を作りたいと言う気持ちはどんどん膨らんでいき、お土産を作る元金を作るために子供3人を育てながら毎夜内職をして頑張りました。
そんな時、私が子供の頃に父母と四国の山に登って食べた懐かしい飴を思い出したのです。
『これだ!』
そして探しに探してやっとのことで飴屋さんを探し当てました。
顔も見た事のないどこの誰とも知らない飴屋の社長さんに
「十夜ヶ橋のおみやげとして野宿飴を作りたいんです。私を信じてもらえませんか?懐かしい飴にきな粉を付けて野宿飴をどうしても作りたいんです。絶対に損はさせません!」
と一生懸命お願いしました。
私の本気を分かっていただけたのか「やりましょう!」と言っていただき感激した事を今でもはっきりと覚えています。
それから私を信じてくれた飴屋の社長のため、喜んでもらうため、約束を果たすために必死で頑張り、約束を果たしました。
顔も知らないどこの誰かも分からない見ず知らずの私を信じてくださった飴屋の社長さん、小さな食堂の野宿飴に目を留めていただいた日本経済新聞記者の深堀さん、本当にありがとうございました。
25年経ってやっと野宿飴を認めてもらったような気持ちです。